小さいことにくよくよするな!
2006年3月10日 読書
"いやな知らせを聞いたり、気難しい人と会ったり、なにかに失望したり、とくに逆境におちいったとき、私たちのほとんどは日ごろの癖で、つい事態を悪化させるような対応をしてしまう。過剰反応、拡大解釈、コチコチ頭、悲観主義。小さなことにとらわれていらだったり悩んだりするとき、それに過剰反応すると欲求不満がこうじるだけでなく、ますます泥沼にはまりこむ。客観的に見られなくなり、否定的な考えにとらわれ、力を貸してくれそうな人たちまで遠ざけてしまう。ひと言でいえば、「すわ一大事」の生き方になってしまうのだ。ばたばた動きまわって問題を解決しようとするが、実際には問題をますます複雑にしているだけだ。すべてが一大事に見えるせいで、ドラマを次から次にこなすような生き方になってしまう。そのうち、一つ一つのことが一大事だと思い込むようになり、問題とどう向き合うかが問題の素早い解決につながることを忘れてしまう・・・・「小さいことにくよくよしない!」癖を身につけると、人生は100%完璧にはならなくても、あるがままの現実を抵抗なく受け入れられるようになる。禅の哲学が教えているように、問題に精いっぱい抵抗するかわりに「手放す」ことを学ぶと、人生は自然に流れはじめる。"
そのまんまでいいよ(秘密1件)
2006年2月3日 読書
まあアホな僕でも傷ついていたときもございまして。傷ついているときというのは人は感性が研ぎ澄まされ世の中の美しいものや汚らわしいものがとてもよ〜く見えるようになってるんですねえ。そしてこういうときはものすごく経験値をアップさせれるチャンスなんですよね。ドラクエだとはぐれメタルだらけなんです。倒したら一気にギガデインとベホマズンが使えるようになっちゃうかもしれません。(ちょっと違うだろw しかし洗脳されやすい状態ともいえます。失恋直後はわるい男にだまされ易いんです。こんな諸刃の剣の状況に於いて批判の精神を忘れずにしっかりと自分を維持していきながら経験値をアップさせていく。これも自分自身というものがある人生ゲームのひとつの醍醐味なのかもしれません。いつだって選択していくのは自分自身。選択肢はいくらでもあるということに気づきつつうまく自分を追い込んでいく!
『名所江戸百景・大はしあたけの夕立』(広重)
2005年7月11日 読書
奇妙な惑星とそこにいるあの奇妙な人々。時間に屈するくせに、それを認めない。反対意見表明の手段を持つ。彼らは絵に描く、例えばこの絵のような。
一見したところでは、格別のことはない。川が見える。岸の一方が見えている。逆流に難儀する小舟が見え 川に架かる橋が見え、橋には人が見える。見るからに足を早める人たち 今しも暗い雨雲から 大降りの雨が降り出したから。
肝腎なのは、その後何も起こらぬこと。雨雲は色合いも形も変えない。雨は強まりも、小止みもしない。小舟は動かずに漂う。橋の上の人たちは走っている。一瞬前と同じ場所を。
ここでコメント抜きには過ごせない。これは決して無邪気な絵ではない。ここでは時間が引き留められた。その法則が放棄された。出来事は進展する影響力を奪われ 時間は無視され侮辱されたと。
ヒロシゲ・ウタガワとか名乗る反逆者の力量によって(その人も遠い昔に去るべくしてこの世を去ったが)時間は躓き倒れたのだ。
あるいはこれも単に無意味な戯れか。たかだが二、三の銀河系に亙る規模の悪戯なのかも そのどれにせよ念のため 蛇足を足せば、次のようになる 以前からここでは絵に惚れ込んで 高く評価し、このちっぽけな絵に 後代まで感嘆し、感動すべきだとされてきた。
それだけでは満足しない人たちもいる。彼らは耳に雨脚の音さえ聞き取り 方や背に滲み入る滴の冷たさを覚え 橋と人々を眺めて そこに自らの姿を見るように思い 行き着く先のないこの駆け足の 終わりのない道を、いついつまでもと そして思い上がりの中で思い込む これがそのままの現実であると。
(ヴィスワヴァ・シンボリスカ『橋の上の人たち』より抜粋)
一見したところでは、格別のことはない。川が見える。岸の一方が見えている。逆流に難儀する小舟が見え 川に架かる橋が見え、橋には人が見える。見るからに足を早める人たち 今しも暗い雨雲から 大降りの雨が降り出したから。
肝腎なのは、その後何も起こらぬこと。雨雲は色合いも形も変えない。雨は強まりも、小止みもしない。小舟は動かずに漂う。橋の上の人たちは走っている。一瞬前と同じ場所を。
ここでコメント抜きには過ごせない。これは決して無邪気な絵ではない。ここでは時間が引き留められた。その法則が放棄された。出来事は進展する影響力を奪われ 時間は無視され侮辱されたと。
ヒロシゲ・ウタガワとか名乗る反逆者の力量によって(その人も遠い昔に去るべくしてこの世を去ったが)時間は躓き倒れたのだ。
あるいはこれも単に無意味な戯れか。たかだが二、三の銀河系に亙る規模の悪戯なのかも そのどれにせよ念のため 蛇足を足せば、次のようになる 以前からここでは絵に惚れ込んで 高く評価し、このちっぽけな絵に 後代まで感嘆し、感動すべきだとされてきた。
それだけでは満足しない人たちもいる。彼らは耳に雨脚の音さえ聞き取り 方や背に滲み入る滴の冷たさを覚え 橋と人々を眺めて そこに自らの姿を見るように思い 行き着く先のないこの駆け足の 終わりのない道を、いついつまでもと そして思い上がりの中で思い込む これがそのままの現実であると。
(ヴィスワヴァ・シンボリスカ『橋の上の人たち』より抜粋)
『忘れっぽい天使』(パウル・クレー)
2005年6月24日 読書
地勢図をつくりながら、より充分な認識という土地に小旅行をしよう。全くの静止点を越えて、運動の最初の行為を起こす(線)。しばらくして一息つくために休止(中断線)。ふり返る、すでにどれだけ遠く来たかを(反復運動)。心の中であちらへ行くかこちらへ行くか思案する(線の束)。川が行く手を阻もうとするので、小舟を利用する(波動)。もっと川上には橋があるはずだが(アーチの列)。川向こうで同じ気持ちをもつ一人の人に出会う、彼もまた、より大いなる意識を見出す所へ行こうとしている。最初は嬉しさのあまり一つに結ばれている(収斂)が、しだいに相違が現れてくる(二本の線の独行)。両者におけるある種の興奮(線の表現と強弱と呼吸)。・・・ 『創造に関する信条告白』より抜粋
大学時代しなければならない50のこと
2005年5月25日 読書
何でも疑い始めたらきりがない。今の無教養な僕にとって「疑う」というのは学問にしても人間関係にしても政治的なげーむができる人間同士の礼儀みたいなものって感じくらい。今は既成のものを吸収して行くので精一杯なんだよ。