主体性と客観性

2007年4月14日 戯言
昼間は主体性を以てひたすら実践。
夜寝る前には客観的に把握して反省。

表裏一体

2006年10月20日 戯言
素晴らしい感性をお持ちの方に限って極端になりがちですから、美徳にしがみついて頑なに自分を守り続けていたり、逆に悪徳に陥って退廃的に堕ちていったりし易いものです。僕はいつでもバランスをとりたがるチキン野郎ですからどっちもあっておっけー派がいいです。でもかなり美徳な感じのこのブログ上でいきなり、例えば国民的チョコレートを目指すキットカットのCM放映中に菅野美穂がいきなり泣きながらヘアヌード写真集を出したように(CM降板wツカ古)、倫理的に悪徳であり不道徳で変態極まりない内容を僕がココで泣きながら書き始めたらちょっとスパイスが効いてて面白いかもしれません。あ、やめます(笑)でも徐々に・・(ぇw 純粋マッスグ君には悪徳の快楽を、どうせ私なんかちゃんには美徳の喜びを。少しは無理しますが無茶はしません。

誰かの為に

2006年7月12日 戯言
人が誰かの為に生きようとすることは偽善とか自己満足とか逆に立派とか偉いとかもうそういうレベルの問題ではないんです。それは当たり前のことであって自然体なんです。ネットの世界では機能しないプログラムというのはプログラムとして存立することはできません。役割を持たないプログラムは映画「マトリックスrevolution」でも伝えているように削除されてしまいます。「千と千尋の神隠し」の舞台となる旅館には何か役割を持たなければそこにおいてもらえないという掟があります。このような身近な映画が伝えるものやネットの世界の例などから、社会的な生物である人が人として心身共に健康で幸せに生きていく(活きていく)ためには常に誰かの為に生きること(機能すること)を志向していることが必要である否、自然体であることをはやく知ることが大切なんだと思っています。そんなのは近代的自我の発達が遅れたむやみに愛を叫ぶ弱い人間の考えることであって強い自分は自分の為のみに生きることが結局は賢明だと思っている人はいづれ色々と試行していくうちにそれだけではダメなんだということに気付きはじめることでしょう。(多くは恋愛によって無意識に気付きはじめるケースが多いように思いますが。)まあ例えばもう殆どボケてたようなじいさんが役所から放置自転車整理の役割を与えられた瞬間にいきなり活き活きし始めて俺が無印で買い物をしようと駅前に駐輪すると「あんたダメだよここにとめちゃ!」っておいどこにそんな力あんだよ!って突っ込み入れたくなるほどの腕力で俺のチャリを駐輪所に持ってっちゃうのは非常にストレスになりますがねww
?本・漫画・映画・音楽に埋もれる。
?知識の整理。体系化。(Create)
?広告研究。経営研究。投資研究。
?適度に遊ぶ。(Enjoy)
?代ゼミの予習復習。(死

急げぇぇ!!

本物と偽物

2006年4月10日 戯言
本物と時として本物以上に精巧に仕上がっている所謂偽物の価値の差は私たちにとってどこにあるのか、これを本物としようと多数派の総意で決めたことならばそれを懸命に守って行くことが大切であるがその行為はときとしてささやかな幻想の抵抗の前にあまりにも無力である。幻想が現実を魅了する。しかしやがてまた現実が幻想を支配する。
型破りって大好き。"もっと自由にLet’s Dance Dance Dance♪"(by福山雅治)縛られ過ぎていたせいで自由な視点を失っているとき、型から少しはずれたことで枠組みの中で悲嘆に暮れる礼儀正しさを持っている人は初々しくみえます。また同時に俺の場合少し自由すぎてもっと型にはまって行く必要があるので敬意もあります。

ちょっとはずれてみることで広がっていくものもある。
愛すべきものがあるのならばときにはキマリなど破ってしまえ。
創造性というものを信じるのであればときには既成の枠組みなど破壊してしまえ。

中和

2006年2月24日 戯言
水濁知有魚(水濁りて魚有ることを知る)。しかし濁りすぎると人間なんてこんなもんかと滅入ってしまう。一方で自由で堂々と美しく解放される感性。清らかな水が感動というカタチで流し込まれる。ものごとを中和させるアイテムというのはいつでも身近なところに転がっている。自分が持っている優位領域の負の部分を中和させるアイテム。立場が違えばアイテムも様々。うまく使いこなして行きたいもの。

役が決まったら

2006年2月22日 戯言
もちろん協調していくことが基本だと思っている。しかし時には強硬な姿勢をとっていかなくてはならない。自分の立場が決まったらそれをしっかり守り続けなければならない。『人生は演劇だ』(Shakespeare)どんな役割を演じるのか自分で選択したのならそれを最後まで責任を持って演じ続けなければならない。例えばジャッキーチェンの映画で劇終後に流れる皆仲良しのミステイク集が劇中でいきなり流れたらその映画はちっとも面白くない。劇はまだまだ始まったばかりだ。
今日は隠れ家の1つである都内の夜景の綺麗なビジネスホテルにいる。気分転換に少し違う環境に身を置いてみることは今の自分の生活スタイルを省みるのによい。
さっきNHKで本上まなみと山本太郎が進行役のトップランナーをちょっと見てた。ゲストは長澤まさみ。(以前バイト先に俺は気づかなかったが来てたらしい(どうでもいい)(あのほころびそうなiとeの発音の間を揺れ動く独特の笑みイイw)
そんな彼女は番組の中で「私23才か25才で一人旅したいと思っているんです。よく漫画とかで自分を探しに!とかあるじゃないですか!」という様なことを言っていた。それを聞いたとき、映画「17歳のカルテ」のウィノナ・ライダー扮するスザンナが全くその逆のことを言っていたのを思い出した。「自分を探すためには遠くに行く必要なんてない。自分はもっと身近なところにいる」という様なこと。
こういう幻想と現実みたいなことを考え始めるとまたどうでもいいウダウダが始まりそうなんで結論だけ言うと、俺は今はウィノナ・ライダー派だと思った。たとえ単調な生活の繰り返しでも内面が拡張されていけば世界は普通に広がる。(単純に言うと言葉や概念を増やしそれを彩る知識やイメージが定着すればするほど世界は広がっていく。)そんなあたりまえが自分探しそのものの1つのスタイルといえる、ということは言い古されていることなのかな。(かな♪

更新:朝食バイキングうまかった。(´∇`)
戦ってみることで相手がどの程度のものなのかが分かります。(言い換えれば自分がどの程度のものなのかがバレます。) ドラゴンボールでも頼もしい味方というのは初めは敵な場合がよくあります。戦ってみてお互いその強さを尊敬し合うことが出来たときに初めて仲間になることができます。例えば知的であるが為に馴れ合いというものに抵抗を感じてひとりで病んでいたり、鋭い感性を持っているが故に人の気持ちが痛いほど分かりすぎて戸惑っていたり、その他もし何らかの理由で孤高を余儀なくされているのであれば、まずは戦う勇気を持つことです。そうすれば必ず道は開けてくる。
(^−^)。oO(世の中ってのはやっぱり他人をより幸せにする為、健康にする為、楽しくする為、豊かにする為、美しくする為の心遣いで一杯なんだよ。

|ョ∀-)。oO(そんなの偽善だろ?どうせ最後には皆自分が旨い汁を吸いたいと思ってるんだぜ?世の中が輝いて見えるってのはそれだけバカだってことだぜ?そうやって隙見せてると蹴落とされるのが落ちだなんだよ。でかくなりてーならどっかでズルイことやってかなきゃな。)

(^−^)。oO(確かにそうだな、お前の言う通りだ。でも勝負ってのはきりがないんだぜ?いつも自分よりも上もいれば下もいる。味方もいれば敵もいる。確かに今の時代清濁併せ持ちながらやっていく懐の深さも必要な場面もあるんだろう。だが人間は本心の部分では他者への思いやりがあって然るべきものなんだよ。

|ョ∀-)。oO(バカかお前?他者への思いやりってお前ってただの自己犠牲を美化するナルシストじゃねーか。時代遅れもいいとこなんだよ。そういう奴ほどどれだけ周りがズルイことやっているのかが見抜けねーか見抜こうともしない間抜けな雑魚ばっかなんだよw

(^−^)。oO(いや俺は別に自己犠牲は肯定も否定もしないんだよ。思いやりって言いながら俺もやっぱり人生ゲームで闘って勝利して行きたいからね。

|ョ∀-)。oO(結局勝ちてーんじゃねえか。お前が勝てば負けたやつは可愛そうな思いするんだぜ?なんて思いやりのねー奴なんだw

(^−^)。oO(この前空手でさ、普通にバット折ったり瓦破壊するレベルの人に体当たりで結構本気で闘い挑んでいったんだよ。んで向うもちょっとはまともに相手してくれてさ、青帯の俺なんかボロクソにやられちまった訳よ。あっちこっちアザだらけになって捻挫して1メートルくらい吹っ飛んだしよ。んでさ、もちろん勝ったときなんかは嬉しいんだよ。それでもボロクソに負けても全力でやった後ってのはやっぱり清々しいんだよな。

|ョ∀-)。oO(んでお前何が言いたいの?スポコンで青春の汗流してます♪ってわけ?全力で闘った後は勝者も敗者もありませんとか言いたいわけ?あんまり笑わせんなよ。お決まりのパターンじゃんw少年ジャンプでも読んでろよ。お子チャマがw

(^−^)。oO(そうやって斜に構える立場もあって然るべきなんだよ。色んな役割があるからね。で、俺が言いたいのはつまりな、いつでも勝負というものにはルールがあるというのを忘れてはいけないってことなんだよ。例えば今川義元から塩を断たれた武田信玄に「武士は戦場で戦うものであり塩や米を送らず罪のない人びとを苦しめるのは卑怯であり武士がすることではない」って敵なのに塩を送った上杉謙信の逸話とか有名じゃん?しっかりルールに基づいて全力で闘えば勝っても負けても清々しいものなんだよね。

|ョ∀-)。oO(だからお前はアホなんだよ。何マネーゲームの時代に武士道とか語ってんだよ。元寇ってどうよ?結局神風が吹いたが、一騎打ちの世界でいきなり集団攻撃で来たらどうすんだよ?まったくお前って奴はオメデタイ奴なんだよw

(^−^)。oO(確かに異世界に接したりして土俵が変わるときにはルールの変容に素早く気づかなくてはいけないときもあるよね。土俵ってのは無数にある訳だから。例えばルパン三世と銭形のとっつあんの馴れ合いは大げさだとしても、明智小五郎と怪人二十面相の世界で正々堂々なんか通用しない訳だから。すごい卑怯で姑息な騙し合いの世界だからね。それでもさ、あれはあれでお互いのいる土俵ってのが分かっていてやっぱり知性的駆け引きの中にも敬意があるでしょ?自分のレベルを分かってくれて対抗してくれる「相手がいる」ということだけでも有難いんだよ。例えばさ「何月何日何時に○○を頂きます」って言って「あそ。で?ご勝手に。」とかだったら二十面相泣いちゃうよ?「なんで俺に対抗する知性的な奴がいねーんだよ・・・誰も分かってくれないよー。寂しいよー。」ってw                   

何も受験に限ったことを言っている訳ではないのですが、だから俺は勝負というものに於いて、第一に味方であろうと敵であろうと「働きかける相手がいる」ことにまず感謝をします。また強い奴には敬意も持ちます。そして勝負である以上敵に対してはこっちはこっちで本気で勝たせてもらいます。それが相手に対しての礼儀であると思っておりますので。 

「差別化」

2005年3月8日 戯言
議論なんかだと船曳建夫さんが自分の意見をつくる為に「不同意の技術」が大切ですよって言ってますが、このような他者と自分の意見や立場の違いをハッキリさせることの繰り返しによってシッカリした「自分」が作られて行くというのは言うまでもないこと。またIQや運動神経や容姿などの要素でもって「レベル」が違うっていうのも自分が責任を持てる得意分野を作って行く為には必要。さらに僕はそれプラス「役割」が違うという考え方も大切だと思っている。

世界は自分の鏡

2005年3月1日 戯言
人によっては常識的なことかもしれませんが、勉強で忙しくなって来ると忘れがちになると思ったので確認の為にここに記しておくことにする。

「世界は自分の鏡」。論語の表現では前にも書きましたが「賢を見ては斉しからんと思い不賢を見ては内に自ら省みるなり」。ユング系心理学の表現を使うと「自分の影が教師として次々と送られてくる」etc...表現の仕方は色々ありますが言ってることの根っこの意味はみんな一緒。

つまり、自分にとって「嫌な他人」は「自分の嫌な部分」が鏡として映っているに過ぎないということ。例えば、また空手の組手で例を挙げてみると(*映画「マトリックスRELOADED」のディテイルな部分ですがセラフがネオに「闘わなくては分からない」と言う場面がありますが、闘うということは人格の本音同士の交渉なので日常生活の人間関係に於いても分かり易いケースとして反映可能であると思うので)もし自分が「バカヤロー!」という想いを込めて相手を攻撃すると、相手も「なんだ、バカヤロー!」という想いで反撃して来る。反対に「切磋琢磨してくれてありがとう」という想いを込めて攻撃すると相手もまた「こちらこそありがとう」という想いで反撃して来る。まあ実際には「ありがとう」にしても「バカヤロー!」にしてもこれほど純粋化された想いがいつも飛び交っている訳ではないですが、つまりそれでも僕が言いたいことは、この世界に対して自分が発した想いというものは遅かれ早かれ作用と反作用の法則よろしく必ず自分に帰ってくるということ。

だから、もし日常生活で「嫌な奴」というのがいればそれは自分の「嫌な部分」が帰ってきているだけなので「なんだあいつはムカつくな」となるのではなく「なるほど!そういうことね♪」という想いに如何に早く切り替わり自分の糧とできるかが大切だということ。
また一つの出来事に於いていつも自分がはじめに他者に働きかけるとは限らないので、空手だともし他者から「バカヤロー!」って攻撃されたら「なんだバカヤロー!」と返すのではなく「君はそんな方法でしか世界に働きかけることができないのか?そろそろ気づけよ?君の不満や怒りや憎しみや苦しみや悲しみの原因は全部自分がつくりだしているんだぜ?正拳突き!オラッ!」という様な想いをもった反撃になるように心掛ける。そうすると相手もだんだん無意識に気づいてくれて「ん?なんか不思議と満たされてきたなぁ、なんで俺って怒っているんだろう?」という感じに変わってくれる。

空手にしても日常生活にしても、僕はこういった他者と共につくりあげる精神活動と身体活動の繰り返しが自分の考え方や経験値を高めてくれるだけでなく、そうすることによって自分の身の回りの環境のあらゆるものが、精神的にも身体的にも経済的にもより豊かで満たされ幸せで美しいものへと変容していくものであると確信している。(もちろん自分も気づかされることも同様にあるという謙虚さも大事) こういったことを一つの洗練された体系としてモデル化し回転させていくことは僕の沢山あるやりたいことの中のひとつである。

大きなパーティーなんかに行って著名な企業家の方(特に日本経済の中心的な役割を果たしていて世界経済にも大きな影響を与えている大企業の社長など)の講演を聞くと、本当に例えば上に書いた様な法則なんかはもう当然って感じで、凄い方ほどみんな良い意味で宗教家みたいなオーラを放っているんですよね。こういう方を見るとまさに「賢を見ては斉しからんと思い」ってなって「僕もあーゆう風になっていきたいなぁ」ってなるんです。

御託はもうほどほどに致しましょう。今の僕はまだまだ無力です。今僕がやらなければいけないことは何ですか?勉強ですね。色々と忙しい中、「忙しい」とは「心を亡くす」と書きますが、こういったことは忙中の閑に於いてでも振り返るゆとりは持っていきたい訳です。

Cafeにて

2005年2月4日 戯言
今日Cafeで後ろに座った2人組みのタメくらいの女の子の会話。

「私今まで真面目に生き過ぎてた様な気がするんだ〜。大学出て社会人になったのはいいんだけど・・・。やっぱりもっと他に自分のやりたいことがある気がして・・。今更こんなふうに思っても神様許してくれるよね?親不孝って罰当たらないよね?」「う〜ん・・・。やっぱりそうだよ。貴女のやりたいことをやるべき。人生もったいないよ。うん。できる環境を親に感謝しないとね。私アメリカに留学してみて分かったんだけど年なんか関係ないって。頑張ろうよ!」

周囲の期待に応える為に自分よりも世間を尊重して真面目に生きて来た優等生タイプが自我に目覚めて自己主張し始める典型的パターン・・・、とか無機質な言葉で片付けることもできるんでしょうけど、飽く迄こういうのは一つの使うと便利な基準ってやつだから、人それぞれ十人十色なこころもようがあって個性もあることは前にも同じ様なこと書いたけど忘れないようにしよう。

そうですよね。自分のやりたいことをやるのが一番です。役に立たない決まりきった型などはどんどん軽快に破壊して行ったほうが良い。(まあ決まり文句だけど。
「今更こんなふうに・・」「年なんか関係ない・・」っていうのは、もちろん無駄なくストレートに目的の場所に到達して行っている人はそれに自信を持つべきだし、それを以って差別化として行くことはとても良いことだと思います。医学部でいったら現役組が再受験組みに対して持てるものですね。(僕もその意味では差別化される側なので無駄のない動きには脱帽です)それでも一方で、上に記したある一人の女の子の言葉を無機質に片付けるのことに対して少しでも嫌悪感を持てた人は、使うと便利な基準でも役に立たなくなった型(この場合は捉えることに限界が出てくる枠組みとしての言葉)などは時として取っ払うことが良いと思える人で、差別化をするにしてもされるにしてもそれが全てではないと思える知的であると同時に柔軟性をも併せ持つナイスガイorナイスガール。

スピルバーグの映画に「AI(人工知能)」というのがありますけれど、この映画の中に「自分だけは特別なんだ」って思いたい人間のせつない感情をそういう風に思うのは「自分だけじゃないんだ」って訴えることで解放させるように描かれている箇所がありますが、そういったことも受けとめたうえで、僕は、人っていうのは十人十色で一人一人が「決めておくと便利な基準」だけでは汲み取れない深みのあるものなんだと思うんです。

緊張と弛緩

2005年2月2日 戯言
先日Cafeで彼女の曲らしきものが流れていた。東大法学部卒(司法試験にも3回挑戦している)にしてジャズボーカリスト。競争社会を生き抜いて辿り着いた「ゆったりした生活」 

「このところ、私はとても、ゆったりした生活を送っています。起きたい時間に起きて、朝の(昼の!?)お茶を飲んで、ひとつひとつの動作を味わいながら着るものを洗って、ぞうきんをかけて。前から気になっていたカフェに、お茶を飲みにでかけたり、家のなかのこまごましたものをひとつひとつよくながめて、かたづけたり、木からもれるひかりをたどって長い道を歩いたり。ひとつのコンサートから、次のコンサートまでの間に起こったことを確かめて、はんすうして、じぶんのなかにおさめて、つぎにあたらしいものが生まれてくるのを待つじゅうぶんな時間があることを感謝せずにはいられません・・・」(鈴木重子)

琵琶の弦のたとえ宜しく何でも緊張と弛緩のバランスが大切なんですよね。生活をトータルで見た場合でってことでも。沢山勉強した後はやっぱり遊びたい。例えばお笑いにしてもオウディエンスを引っぱって引っぱって緊張させてポンって落としてドドド・・って笑わせるのが楽しくて、笑わされるほうもその解放感が気持ちいいんです。どうせなら気持ちよく生きて行きたい、そんなふうに思ってます。ヒシヒシと辛い日々なときがあるのかもしれませんが、それでもポカポカと暖かい日々があるわけです。いたって自然です。

彗星

2005年1月29日 戯言
彗星はその殆どが氷で構成されている。太陽に近づくと太陽風の熱で溶けてガスや塵をまき散らし美しい軌跡をつくるまたは重力で流星群となって降り注ぐ。
TPOに応じて僕たちは誰でも「太陽」「彗星」「惑星」「衛星」の基本性質に例えられるのでしょう。銀河系なんか考え始めたらまた大変ですが。日記のタイトルは「COMET(彗星)」へ。
受験をひかえた人が自分を或いは先生が生徒を鼓舞する言葉に「神が降臨している」という言葉があったりする。「神が降臨している」とは普段の自分の実力以上に能力を発揮するという意味。ドラゴンボールで言うなら「界王拳〜倍の状態になっている」とも言い換えることが出来る。つまり研ぎ澄まされた感性を持ってして目標に向かって本気(マジ)になるということ。
こうなることで人間は能力(戦闘力)が普段の何倍にも上昇することって実際あると思ってます。ドラゴンクエストの「快心の一撃」ファイナルファンタジーの「クリティカルヒット」っていうのは現実でも起きうることですからね。(受験にかぎらずスポーツでも何でも。ビジネスなんかもそうなのかな・・・)
でもこれが行き過ぎると(自分の基本体力を超えた界王拳を使い続けると)その人は知性の立場からすると突っ込みどころが満載な人になってしまうと思う。劇作家の野田秀樹の言葉でも借りると「向こう岸に行ってしまった」人になってしまう。さらにもっとひどくなるとスペインのシュールリアリズム(超現実主義)の画家のサルバドール・ダリのように「俺は天才だ!」と叫ぶ恍惚な人と化してしまう。ですから本気(マジ)になるということは凄いかもしれないけれどこういった危険性も孕んでいる。
それを防ぐ為のブレーキとして(知性の意見として)、「あいつマジになってやんの」「(・∀・)マジレスカコワル!!ppp」というような言葉があったりする。この様な意見を受け止めることで他人との関係性の中での相対的な自分の立場を確認させられることとなり、「向こう岸に逝くこと」から踏みとどまることができる。
それでも知性から来る理性的な意見というものは己の自我の優位性を確保してそれに執着することであるという意味で、本気(マジ)になって(無我夢中になって)いる人間には全く歯が立たない場合が殆ど。(子供が怒って手をぶんぶん振り回すのとかは除いて)
こういったことを把握してみた上で、受験をひかえた人は上手に「神を降臨」させていくことが大切だと思いました昨今です。
せつなさ 騎士道 熱望 

例えばこうやって他人の様子や言動をシンプルに自分の言葉にあてはめて解決していくことは色々思い悩むことを避けられる分独りよがりになっていく危険性がいつもあるものだ。特に自分が充実した日々を送り始めるようになると、傷つき悩んでいた日々のことは忘れ、今傷ついている人間に対しての礼儀みたいなものにすごく疎くなって行くような気がする。
前を見て前進して行ける自分に対しての自信、後ろを省みることのできる謙虚さ。バランスなんだろうけど意外と難しい。

独立自尊

2005年1月13日 戯言
以前に某広告代理店の役員の方々と慶応大学の某氏(助教授)の人と食事をする機会があった。そのときにほろ酔いの某氏からしくこく言われたものに「独立自尊」という言葉がある。(後日額縁の様なものまでもらいましたけど(^−^;)、言うまでもなく慶応義塾の有名な理念のひとつで(特に経済界の方達の間で人気のある言葉)、今となっては僕にとっても掛替えない言葉のひとつになっている。
慶応義塾を創設した福沢諭吉は、明治時代の日本を独立(植民地化されない方向)に導いた啓蒙思想家ですよね。個人の独立なくして国家の独立はないですよという具合に。
そんなことを振り返りつつ思うのは、「独立自尊」のベクトルはいつも「人の和」(孫子)を指していなければならないということ。つまり何の為の「独立自尊」かといえば、他者とより調和のある高度な関係を築いて行く為の「独立自尊」でなければならないということ。

追記
関係性が大切。独立した個人が相互にチェックし合う。馴れ合うのではなく切磋琢磨。

日記雑感

2005年1月2日 戯言
日記を書いてWeb上で公開するということはつまり「私を愛してください・認めてください」ということに少し例外はあるかもしれませんが帰結させることができると思います。そういう中で、自分を高く見せる為の暗示を必死に織り込んだ虚栄心を満たすことだけに主眼を置いた文章は見ていると、そこまで自分を飾らなければダメなの?と疑問を投げかけたくなります。(これは自分に対しての場合も含めてです)それでも人間はお洒落な服を着るのが好きですから、いつでも誰に対しても在るがままの自分自身でいるのは難しいものです。お洒落をしてナルシシズムを謳歌して愛されていることを実感することが物事を成すことの一つの大きな原動力になるのも事実ですからね。そういうことを受けとめつつ思うのは、「自分はこんなに凄いんです。認めてください。愛してください。」と主張するにあたっては、その表現の示している分野では其々シッカリ責任を持つことが大切になってくるということでしょうか。「ボクドラえもんです♪」と主張したいのであれば、ドラえもんとしての自信と責任を持つことが大切になってくるということです。

ということで再受験します主張している僕は今年は受験勉強をシッカリやり通すことに責任を持たなくてはいけませんね。

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光

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